檻之
汰鷲
ORINOTAWASHI

生きる芸術とは、生活と芸術の間を埋めること

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生きる芸術 
表現によって、人の暮らしを豊かにし、
さまざまな生き方の可能性を伝えること。
その表現は、人の心を動かし愉しませることを目指す。

生きる芸術を実現するために五箇条

1. サバイバルアート
そこにある環境と材料と道具で
作品をつくり日々の糧を得ること。

2. 価値とはなにか
捨てられたもの、忘れられたもの、
当たり前のことのなかに価値を発見すること。
また、貨幣経済以外の価値をつくること。

3. 暮らしの芸術
衣食住に伴う日々の暮らしのなかに
芸術を発見すること。
足るを知り欠くを楽しむこと。

4. 社会彫刻
社会を観察し、よりよくするためのニーズをみつけ、
人と関わり行動し、そのカタチをあらわすこと。

5. 見ること知ること
外見にとらわれず、対象に触れること。
見えないものを見る心を持つこと。

時代を変えるのは、ひとりひとりの個人がその人生に目覚めることだ

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はじまりは「自分で家を建てたい」だった。でも日本でそれを実現するには土地が必要だった。なので、あれこれ検討しているうちに空き家が日本中にたくさんあることを知った。
「空き家を自分で改修して暮らせるようになれば、空き家を転々とした生活できるかもしれない。」

いま、これをやるための準備中だ。ぼくは3.11をきっかけに自分の生き方を見直している。その答えを探してヨーロッパとアフリカ大陸を旅した。明確な回答は得られなかった。当たり前だ。答えなんかなくて、いまこの瞬間の生き方がその答えだ。「どう生きるのか」という問いに即答すること。いまできることをやる、それが生き方をつくる方法だ。

いまは自分自身を整理している。モノや情報に関する。自分とはなにか。それは情報の集積。生まれてから選び取ってきたものが個性をつくりだしている。ほとんど無意識の無自覚のまま選び取ってきたモノの集合体=私。

ぼくは1974年東京に生まれた。これだけの情報でも同世代以上の年齢の人であれば共通の話題がいくつもあるだろう。例えば、ぼくが住んでいるのは板橋区→東京→日本。これもぼくを表す情報のひとつひとつだ。ぼくはこのようにたくさんの情報を抱えて、ぼくという人格をつくっている。その要素を”アドレス”と呼ぶことにする。

アドレスの整理とは、なにとなにを基盤として自分をプログラムするのか。大きなテーマは「人間と芸術」。ぼくは、ひとりひとりが、その人生をつくることこそが芸術だと思っている。もっとたくさんの人が意識的に自分の人生をつくるようになれば、社会のカタチも変わっていくと信じている。

いま現在は、空き家を改修して日本を転々とするために、できるだけシンプルになるように編集作業をしている。例えば、身軽になりたい。持ち物を減らしたい。時間を好きに使いたいので、縛られる仕事を減らしたい。好き勝手に生きるのであれば収入は少なくなる。という具合に、Aを選びBを捨て、ときにはAもBも捨てる。ぼくは、この「アドレス編集作業」も生きる技術のひとつに数えようと考えている。このテキストはその試論でもある。

昨日、テレビでニュースで経済格差の話をしていた。「これから、ますます富裕層は富を蓄え、労働者たちは、お金が貯まらない時代になっていきます」と。妻のチフミが「ねえ、貧しいと思ったことある?」と言った。「お金持ちではないけど、」とぼくが言うと「貧しいなんて感じたことないよ。」と答えた。

ぼくは、自分が進んでいる方向でいいと感じた。ぼくたち夫婦は、それぞれ仕事をやめて、アート活動で生きていくと決めて2013年に旅に出た。帰国して、それは難しいことだと分かったけど、さらに冒険を続けることにした。

生活の軸は作品づくりにある。2人で、作品をつくっている時間がもっとも充実しているし、その作品がお金になって生きる糧になる、この喜び。だからこそ、お金の価値を身を持って知るようになった。そんな状況でも妻が「貧しいと思わない」と言ったのが嬉しかった。生きる芸術というコンセプトで自分の生き方をつくる冒険は、ずいぶんと道の途中だけど、完成は死ぬときだろうから、こうしてテキストにしている瞬間もひとつの作品だったりする。

ぼくが持つアドレスのひとつひとつは情報で、大きければ大きいほど、それは共同幻想だと気づかされる。国家なんて会社と同じようなものだ。あらゆる共同体の上位に、人間ひとりひとりが尊重されるような社会に変わらなければならない。ぼくは、それが革命だと思っている。変わるのは政治でも社会でも国家でもない。そんなものは、幻想でしかない。来るべき時代とは、ひとりひとりの個人がその人生に目覚めることだ。それが生きる芸術だと、伝わる日を目指して。

2015年開幕 1/360日のレース(2015年1月5日⇒2016年の1月1日)

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2015年が開幕した。2015年1月5日から2016年の1月1日まで360日のレース。それぞれ自分が選んだコースを走る。ぼくは芸術家として、いかに生きることができるか。芸術とは、表現すること。それはすべての人間に当てはまる。生活はアートに溢れている。料理をすることも、子供を育てることも、働くことも、みんなそれぞれの人生をつくりだしている。ぼくの場合は、「つくり、伝えること」を選んだ。なぜなら、生きる芸術というコンセプトをつくり、生きる喜びを伝えることを仕事にすることにしたからだ。

いまは、朝5時に起きて、6:30〜10:00まで清掃のバイトをして、その後ボルダリングのジムで壁を登ってトレーニングし、午後は、作品づくりの時間。これはこれで、とても愛らしいバランスの生活リズムだ。収入が少ないから、食費が削られる。しかし、食事は質素になるほど、素材の味を噛み締め楽しむことになる。朝のバイトで時間が拘束されるから、その他の時間がより自由に有効活用できる。足るを知ることで欠くを楽しむようになった。自分の生活が小さくなればなるほど冒険し易く、常に糧を掴む体勢にあれば、日々の出会いや出来事から仕事をみつけるようになった。

1月中にやる仕事は、去年友達カップルにオーダーされた作品をひとつ、クライミングジムのオーナーに依頼された作品をひとつ、2点の作品を完成させること。また4月から始まる、愛知県津島市の空き家再生プロジェクト「空村」での生活のために荷物を極限まで減らすこと。自分に必要なものは何か。アートと家族、音楽、本、それとスポーツを楽しめる健康な身体。まず整理すべきは、音楽の道具。旅芸人のような荷物に仕上げたい。4月からは、家を改修し、村をつくるこという、これまでにない規模の作品づくりに挑戦する。

去年の5カ国の旅をまとめた本を今日、印刷所へ入稿する。これは、出版するために書いたものだが、そう簡単に編集者は「オッケー」とは言わない。なので、デザインから製本まで完成させたサンプル本をつくることにした。そこから足し引きすれば、なんとかゴールできるんじゃないか、という企み。また、この本は、所属ギャラリーを探すための武器でもある。この1冊に檻之汰鷲の表現してきたこと伝えたいことが書いてある。こればバイブルだ。この本をつかってアートシーンを冒険する仲間をみつける。

どこにいたって冒険はできる。始めたら諦めるなんてなくて、先が「ノー」と分かれば、また別の道を進めばいい。答えを確かめないまま、やめてしまほど、無駄なことはない。あと1歩あと1歩、踏み込んで答えを確かめる。

歌い踊り祈ることの遊び場

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わたしたちは、
夫婦でアート活動する檻之汰鷲(おりのたわし)です。
そこにある材料とアイディアで作品をつくります。

12月29日、代官山UNITで開催されるONENESS MEETINGに参加して、
フェスティバルを再現します。フェスティバルとは祭りです。
わたしたち人類は、その昔、何のために歌い踊り祈ったのでしょうか。

この祭りのテーマである縄文時代、
その時代には、みえるものだけでなく、
みえないものをみて、自然や動物と一体となって、
祭りは行われていました。

そうであるなら、この場所でも自然を感じながら、
全体のひとつとなって、お祭りを行いたい、
そう考えて、マスクや衣装を用意しました。

この会場に時空を超えた遊びの場をつくる、
ここにあるものを使ったアートインスタレーションです。
これは会場装飾のひとつでもあります。

http://onenesscamp.org/

日々の生活にリズムを与える

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これまで、なにを考え生きてきたのか。反省とまでは言わないが、想い起こすことが多々ある。

いまは、作品をつくって、生きていけるようなライフスタイルをつくろうとしている。しかし、それは未来に完成するものではなく、常なる日々につくられていくものだ。だとすれば、いまどうやって制作を最優先に生きていくことができるか。

「作品をつくる」というお題は、あまりに様々な意味を持ってしまっている。例えば今取り組んでいる空き家再生プロジェクトも作品だと思っている。場所をつくること、空間をつくることも創作のひとつだ。この時代が要求することを表現し伝えること。逆に言えば、ぼくの場合は、つくり、伝えるものであれば、すべてが作品になる。

去年、旅をしながら、なにをどう表現すれば、そこに暮らす人たちに届くのか、考えながら取り組んできた。エジプトでは社会彫刻というコンセプトに至った。これは、ヨーゼフボイスが唱えたものでもあるが、彼がなにをしたかぼくは具体的に知らない。自分の体験から湧いたアイディアを育てれば、それは唯一無二の結果を生み出すから、立ち止まって考える必要はない。やってしまえばいい。
社会彫刻とは、社会を材料に行動してカタチを変えることだ。だから、なんだって社会彫刻になる。当たり前のことでも作品として提示することで、アートの敷居を下げて日常に近づけて、誰もが表現者なんだということを伝えたい。つまり、日々日常のなかで選択するひとつひとつが、人生を、この時代の社会をつくっているんだ、ということを。これはメッセージだ。

先日、つくっている本について友達から、テキストと作品が完全にひとつの本に収まったら、読者が考えたり感じたりする余白がなくなっちゃんうんじゃないか、と指摘された。なるほど、参考になる客観的な意見だ。ひとつには素直にその方向性に編集されたバージョンもつくってみよう。

現在つくっている本は、確かに余すことなく、自分の思考・行動・創作すべてを網羅している。しかし、どんなに言葉を費やしても、どんなに創作しても、人間が生きているという不思議さ、この社会の不条理さには到底及ばない。むしろ、そんな風に伝わる本に仕上がったらいいのかもしれない。

朝の清掃のアルバイトを始めて、生活はリズムを得た。修業だ。いま読んでいる「利休に帰れ」立花大亀の本に、修業とは、自分の過去の業を省みて、それを修めようと取り組むことだ、と書いてあった。この本は、禅宗のお坊さんの立場から茶の心を問う本で、茶の湯への興味を満たしてくれる。
昨日も朝5時に起きて、バイトにいった。ビルの守衛さんが今日は人が少ないから、と言う。なんのことか、考えながら歩いていると確かにビルには誰もいない。休日だった。ぽっかり空いた時間なのでボルダリングジムにいくことにした。ボルダリングジムへの交通費を賄うためにこの仕事を始めたようなものだから、それは見事な収まり方をした。ジムのオーナーは24時間好きなタイミングで使っていい、と言ってくれているので、朝6:30からでもトレーニングができる最高の環境になっている。
ボルダリングとアート活動は、関係ないようでも、多いに関係ある。スポーツはある地点を目指して積み重ねていく。どうやったら、到達できるのか、あらゆる方法を試行錯誤する。今日もどうしてもできない課題の解決策が閃いた。ボルダリングは手で岩を掴むのでそこに意識が囚われるが、脚も重要だと気がつかされた。
「どうやったら、それができるのか」こういう思考と試行の積み重ねをぼくはボルダリングで学んでいる。

人は得意なことは喜んでやるが、苦手なことは避ける。子どもの頃は「やりなさい」とやらされるが、大人になるといろんな理由をつけてやらなくなる。しかし、苦手なことに向き合ってこそ、みえることがある。
千利休は大男で、故に小さな茶室をつくったという。小さな部屋にこそ大きな道具を使い、大きな部屋だからこそ、小さな道具を使う。それが意図するところは「極端」だ。極端という発想、それは相反するものを捉えて取り組んでみること。してみると、それはもどかしく、どうにも上手くいかない。しかし、その拙なくもどかしい状態をを生活のリズムに取り入れると、シンプルかつスローになる。苦手だから、器用にテンポよくいかない。でも、その速度だから見えること気が付くことがある。前提として、その苦手なことを愛せるかどうかは重要なポイントだ。苦手や下手に向き合うこと、それは物事に取り組む、もっとも基本的な姿勢を再発見することになる。一からのスタート。もちろん、茶道の思考法に倣う必要はないが、これもひとつの遊び方の提案。

こうしてぼくは、いま現在、創作を最優先にして生活環境をつくっている。40歳でアルバイト、収入は10万円程度。このスタイルを許してくれるだけでなく、一緒に楽しんで生活してくれる嫁に、なにより感謝している。

茶の湯から暮らしの芸術へ メモ:

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モロッコでチフミが着物をつくったことを原稿にしたが、タイトルが決まらない。つまり、原稿が書けていなかった。要素を洗い出してみると、うっすらと茶道の侘び寂が浮かんできた。茶道の質素さ、とは何だろうか。

調べてみると、村田珠光(むらたじゅこう)が室町時代(1500年頃)に作り出したとされている。

この道において、まず忌むべきは、自慢・執着の心である。達人をそねみ、初心者を見下そうとする心。もっての他ではないか。本来、達人には近づき一言の教えをも乞い、また初心者を目にかけ育ててやるべきであろう。
そしてこの道でもっとも大事なことは、唐物と和物の境界を取り払うこと。(異文化を吸収し、己の独自の展開をする。)これを肝に銘じ、用心せねばならぬ。
さて昨今、「冷え枯れる」と申して、初心の者が備前・信楽焼などをもち、目利きが眉をひそめるような、名人ぶりを気取っているが、言語道断の沙汰である。「枯れる」ということは、良き道具をもち、その味わいを知り、心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。これこそ茶の湯の面白さなのだ。とはいうものの、それほどまでに至り得ぬ者は、道具へのこだわりを捨てよ。たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、人に教えを乞う姿勢が大事である。それには、自慢・執着の心が何より妨げとなろう。しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道でもあるのだが。
この道の至言として、
わが心の師となれ 心を師とするな
(己の心を導く師となれ 我執にとらわれた心を師とするな)
と古人もいう。

茶の湯に詳しいリンク
http://www.omotesenke.jp/

南坊録という本が、わび茶の心を伝えるらしいが、その本が7冊にも及ぶ大作であることから、その全貌を捉えた良書が見当たらない。そのそも、解説の類が多すぎて、その原典をシンプルに伝える本が少ない。
例えば、
宮本武蔵の「五輪書」は原典そのもの。
井筒俊彦の「マホメット」はその点で、傑作だと思う。

昨日から」インターネットでいろいろ調べたメモ:
侘び寂び
茶の湯独特の雰囲気や境地を、世間ではよく「わび・さびの世界」などと呼ぶことがあります。その意味するところは、閑寂(かんじゃく)・清澄(せいちょう)な世界、あるいは枯淡の境地をあらわしています。さて、このもの静かでどことなく寂しげな境地、あるいは色彩感を否定したような枯淡な趣(おもむき)
を美意識として発展させたところに、日本文化の独自性があるでしょう。

利休七則

一、茶は服のよきように点て
二、炭は湯の沸くように置き
三、花は野にあるように
四、夏は涼しく冬暖かに
五、刻限は早めに
六、降らずとも傘の用意
七、相客に心せよ

利休四規
「四規」とは和敬清寂〔わけいせいじゃく〕の精神を言います。
和…お互い仲良くする事
敬…お互い敬いあう事
清…見た目だけでなく心の清らかさの事
寂…どんな時にも動じない心の事

利休の言葉
稽古とは、一よりならい十を知り、十よりかえる、もとのその一

規矩(きく)作法
守りつくして 破るとも
離るるとても 本(もと)を忘るな

その道に入らんと思う心こそわが身ながらの師匠なりけれ

家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて、足る事なり

叶うはよし、叶いたがるは悪し

借りる本:
近世芸道論
茶話指月集;江岑夏書
アーティストの言葉 美の創造主たちの格言

ぼくは自分がこれからつくるものを「暮らしの芸術」としたい。
インターネットで検索すると、
そのものズバリ「暮らしの芸術」を実践しているところがあった。
http://mura-ryugaku.com/
空村で利用したらいいかもしれない。

丹羽順子ちゃんのブログにサティシュという
人が言う「暮らしの芸術 Art of Living」にピッタリ共感。
http://www.imakoko.org/archives/1354

アートは美術館にあるものじゃない
毎日の生活、一瞬一瞬に宿っているものだ

呼吸すること、歩くこと、食べること、耕すこと
全てに美しさを見い出し、心を込めて行なうこと
私は全ての行為がメディテーションだと思っている

特別な人がアーティストなんじゃない
全ての人が特別なアーティストなんだ

またアーティストでなくなってしまったのは
私たちが消費主義に支配されているからだ
消費やお金が、アートや想像力を奪ってしまう
生活に必要なものを買うのではなく
想像力を働かせ、手を動かし、喜びを感じながら作ろう

お金はものをやり取りするのに便利なツール
なのに今は地球がお金に仕えている状況
それを逆転させ、お金が地球に仕えるようにしなければならない。

オオカミとイヌを区別できなくなるほど、勘違いをしている。

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今月末29日にOneness Meetingという音楽イベントにアートで参加する。このイベントは音楽プロデューサーのJ.A.K.A.MことMoochyが主体となって運営されている。縄文をテーマにぼくら日本人のルーツを問うコンセプトだ。だから出演者は知名度ではなく、まるで根の深さでセレクトされているように日本全国から意志を持った表現者たちが集まる。ぼくは光栄にもムーチーからイベントに参加して欲しいと誘ってもらった。会場をアートで装飾して欲しいというのがお題だった。

ぼくは自分のテーマをサバイバルアートにしている。それは、そこにあるものを利用して作品をつくることで、必要以上のものを買ったり移動させたりすることを極力避けている。「ない」を受け入れることで今までに見えなかったことが見えてくるからだ。

しかし会場の代官山のクラブにあるものとは何だろうか、と考えてしまった。音楽は誰のために鳴っているのか。お酒は誰のために売っているのか。答えは人だ。イベントにもっともたくさんあるのは、その場を楽しんでいる人々。会場を装飾するのではなく、衣装とマスクをつくり展示し、そこにいる人を装飾するという参加型のパフォーマンスをしてみることにした。

ぼくら日本人のルーツが縄文なら、音楽のルーツは祝祭だ。祝祭は神に祈りを捧げる場所だった。人々は神の姿を仮につくり、祈り歌い踊った。多少の違いはあれ、多くの民族がそういう伝統文化を持っている。
そこでオオカミのマスクをつくることにした。オオカミとは大神でもある。ぼくはオオカミの画像をみながらつくり始めた。するとすぐにイヌとの違いが気になった。調べれば調べるほど、謎が深まっていった。特にニホンオオカミの話になると、それは伝説の動物だった。数少ない標本をみても、イヌでもオオカミでもない、キツネのようなイタチのような奇妙な姿ばかりだ。ニホンオオカミに至っては、そもそも日本では山犬をオオカミと呼び、そのせいで誤って混同して分類してしまったという逸話がある。そもそもイヌとオオカミは同じだという。

知識とは、なんだろうか。ぼくは、オオカミについて知ったつもりになっていた。きっと、そんな知識ばっかりなんだと自分を疑った。勘違いで塗り固めた城に住んでいるアホ殿様みたいだ。世の中のことなんて少しも知らない。壁を詳しく眺めてみればご覧の通り、裂け目で今もに崩れそうに脆い。そのずっと奥には言葉にならない、見えもしなければカタチもない深淵が口を開けている。だから、見るだけではなくその奥に触れなければ、何も知ることはできない。この情報に覆われた時代、知るということの難しさ。「ある」を獲らないで「ない」を受け入れる精神力。
表面だけの常識や知識を剥がして、裸になりたい。知識の反対は無知だ。ピストルを拾って人を殺した永山則夫は「無知の涙」という本を書いていた。無知のまま裸で1日1日を生きてみたい。今日、閃きがあった。今月29日のイベントでは裸になった方がいいかもしれない。

太古から脈々と続く人間の表現。
人と人がこの世界を育んで、
矛盾や葛藤も飲み込んで、
2014年師走の江戸。
再び集まり、語り、踊り明かそう!
MOVEMENTS ONENESS MEETING
DATE: 2014年12月29日 月曜日
AT: UNICE&UNIT&SALOON
開演: UNICE 18:00 / SALOON 19:00 / UNIT 22:00

「ない」と「ある」その両方にない場所、つまり空白。

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10年前に拾った本は時間の使い方について書いてあった。以来、たまに時間を意識して生活するようになった。昨日は久しぶりにタイムスケージュルを組んで一日を過ごしてみた。5時に起きて朝の清掃のバイトを終え10:30に帰宅して、メールをチェックして11:00過ぎから愛知県津島市の空き家再生プロジェクト空村のプレスリリースの原案をつくり、13:00から昼飯をつくって食べ、14:00から出版のために書いている「生きる芸術」の原稿を直し、19:00から日本橋で空村のミーティングがあるので15:00に家を出て、池袋のボルダリングジムに向かった。生活のパターンのなかに運動を入れるのは重要だ。なぜなら人も動物だから。身体を駆使して本来サバイバルする生き物だからだ。

ジムへの通り道にある大型書店リブロに寄った。本棚を眺めながら欲しい本をチェックしリストアップした。黒澤明の本が欲しかったが買うお金がほんとうにないので諦め、さらに本のチェックだけ続けた。それはそれで楽しくて興味ある本のリストをつくって満足したので、買えない残念な気持ちをその場に捨て外に出た。視線が空に抜けて気持ちが広くなった。

その瞬間、心に空白が生まれた。新しい感覚だ。ジムに向かって歩きながら考えた。この空はどうして生まれたのか。何なのだろうか。

ぼくは書店で本の背表紙を眺め興味が湧くひとつひとつを手に取って中身をチェックした。そのひとつひとつが知覚の扉を開いていた。その向こう側には入らなくても、窓から向こうを眺めることができた。ぼくは観光するように、本から本の景色をいくつも眺めていった。もし、ぼくがどれかを選んで買っていたら、空白は選び取った本に埋められ、空白は生まれなかっただろう。ひとつひとつの本を手に取り見た景色は忘れてしまっていただろう。

昨日の一日を文章に例えれば、びっしりと隙間なく文字が詰まっているようだった。たった数行を除いて。書店にいた数十分、買わないで外に出たその僅かな行間に空白が生まれた。

未満の心の奥にある想いをみつけたとき錬金術になる。

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さて旅から帰国して、5ヶ月が過ぎ、今年も終わりに近づいてきた。いまは、来年、改修しながら住む津島の空き家、空村に向けて準備している。打ち合わせや連絡を繰り返して少しずつ実現のために動いている。

作品をつくることを最優先にした生活も1年以上が過ぎた。結局、収支としてはマイナスの状況。作品を売っても日々の出費に呑み込まれてしまう。自由になるとは自立することで、それをやろうとすれば、どうしてもお金と向き合なければならない。

作品をつくって家から出なければ、さほどお金はかからない。しかし、そういう訳にはいかず、やりたいボルダリングのジムは欠かせない。レッスン料と交通費がどうしてもかかる。たまに山に行って岩を登りたい。無職の人間がなんという贅沢を言って居るのか。しかし、やりたいことは、どんどんやらしてあげたい。やりたくないことはやらなくていい。でも、やりたいことをやるために、やらなければならないこともある。むしろ贅沢している分だけでも、定期的な収入を得たい。

朝8時に起きてのんびり朝食を済ませインターネットでニュースなんかをチェックして、朝10時ころから、ようやく作品に手をつける。そうじゃない日もある。日記を書いたり。はっきり何をしたか定かでないままお昼になることもある。ぼくは、はっとした。生きる芸術をテーマに活動しているのに、なんと時間にルーズなことなのか。すべての人間に平等に与えられた唯一の資源、時間をこんな使い方をしてしまっていることにショックを受けた。

デザイナーの友達は仕事柄の怠惰な生活パターンを正すために、早朝の清掃のバイトを始めたそうだ。すると1日にリズムが生まれ、いろんなことが上手くいくようになった、と。そこで早速、早朝の清掃バイトに応募して、朝6:30〜10:00まで働く生活パターンを手に入れてみた。

5:00に起きて働き始め1週間が過ぎた。ボルダリングジムの交通費を補うためにバイト先は近くにした。清掃のバイトはオフィスのゴミを捨て掃除機をかける。働いている人は忙しくて、ゴミなんか捨ててられない。そんなことをしていたら生産性が落ちてしまう。だから、ゴミを捨てるという仕事が発生している。そこにニーズがあるからお金が発生する。ぼくは社会という生き物の一部になったような気分だ。まるで身体の悪性の菌を退治する細胞のように。社会に必要とされたおかげで定期も購入でき、ボルダリングのジムにも好きなだけ行けるようになった。

昨日、日頃から共感するエイジくんと話した。日本を代表するジャムバンドでベースを演奏してバンドをマネジメントしている。エイジくんのライフスタイルは、ぼくよりずっと進んでいた。なかでもフェスの制作の仕事をしたきっかけのエピソードがいまの自分にリンクした。あるフェスに出演した1回目は、イベントはうまくいかなかった。2回目は少し協力した。それでも上手くいかなかった。そこで3回目は制作として関わった。そして成功した。それが仕事になった。明らかにエイジくんはニーズを満たした。主催者だけではできないことに手を貸し成功に導いた。そういうノウハウをエイジくんは持っていた。
自分ができることを最大限活用し社会の様々な局面で手を貸して成功に導けば仕事をつくり出すことができるんじゃないだろうか。掃除の仕事と同じだ。誰かが手をつけていない場所にこそ価値が埋れている。つまり周りを見渡せば、そこには宝が眠っている。未満なところにこそビジネスチャンスがある。0(ゼロ)を1(イチ)に変えることができればそれが成功だ。

いま取り組んでいる空村にはその可能性が溢れいる。現地に行きお店に尋ねて話しを聞くうちに、この場所を活性化させる動きが水面下で始まろうとしていることが明らかになってきた。それはまだみんなの心に燻っている想いだった。地元の人は、出会ったときに「風が吹き始めました。わたしたちが想いを持ったら、そうなるように追い風が吹いて背中を押してくれているようです。」
この社会という共同幻想は、まったく予想もつかない点と点が結びつく。だからぼくは未満なところに注目して、一緒に成長してくれるギャラリーを探してみることにした。

生きる芸術 – 概論 

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(第一案)

すべての人は芸術家だ。
その与えられた命を
自由にすることができる。
命とは時間だ。
瞬間が
重なり
1日
1週間
春夏秋冬
10年
30年
50年

へと続いていく。

生きられる時間が
1日減って
生きた時間が
1日増える。

すべての人は
自分の人生を
つくることができる。
その意味で
すべての人は芸術家だ。

死へ向かって
未来を計画する。
日常の仔細な出来事を
拾い集め磨いていけば
価値がうまれる。

すべての人は、
社会という生物のなかに
生きる微生物のようなものだ。
社会という動物をよいカタチで
活かすための働きをしている。
社会が必要なことをすれば、
人もまた活かされる。
そのカタチをつくりだすのが
社会彫刻だ。

生きるのではなく
活かされること。
考えるより前に行動すること。
静かにコツコツ積み上げれば、
望んだ未来をつくることがきる。
二者択一の罠に陥ることなく
真ん中に自分を置いて
欲望を削ぎ落としていく。

そこに
あるものを
表現して価値を創造する。

つくる
出会う
伝える
を繰り返し

足るを知り
欠くを楽しむ

すべては、
この今
目の前にある。