檻之
汰鷲
ORINOTAWASHI

一日一日でしかない

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今日という一日をどれだけ生きることができるのか。それが毎日のテーマだ。ぼくはなぜ生きているのか、それを知りたい。

今日はパピエマシェで龍をつくった。動物をつくるうちに干支をやったらいい、という話しになった。で、面白そうな龍をやることにした。龍は、空想の動物だ。だから現実には存在しない。干支に実在しないのは龍だけだ。だから、龍はかつてはいたという説があるらしい。実在という意味では、ぼくも実在していない。ほとんどの場合で。つまり、ぼくを知っているひとの世界では存在しているが、知らないひとの世界にはいないに等しい。龍もぼくも同じ実在しない動物みたいなものだ。

龍をつくりながら、また今日もなんでこんなことをしているか疑問が湧いてきた。龍は、実在しない動物だが、その顔は駱駝で、頭には鹿の角、爪は鷹で掌は虎、身体は蛇で鯉の鱗に覆われている。なんで龍をつくるのか理由を知りたくて、調べてみた。

龍は珠を持っている。その珠は願いごとを叶えるらしい。なるほど、これがドラゴンボールな訳だ。願いごとを叶えるには、夢が必要だ。どんな夢を持っているのか。ぼくは、アートをつかって、ライフスタイルをつくりたい。アートという表現を通じて、生き方を提示したい。こんなことも可能だよ、と。そのためには、自分の人生をつかって実験しなければならない。なぜなら、それができるか分からないから。ぼくは失敗を恐れたくない。なぜなら、それは過程だから。続けている限り、ま実験をた繰り返せばいい。

なるほど、龍をつくるには、珠が必要なんだ。それをチフミに相談すると、庭に珠があると言う。うちの庭にガラスの珠があった。それはつくっている龍が抱えるのにジャストなサイズだった。

龍をつくる疑問がなくなってきた。ぼくは、誰かの人生がうまくいけばいい、と願っている。ひとは、それぞれの生き方を選択しているが、ひとりでも多く幸せになればいい。そう人類全般の幸福を祈るのが本来の宗教の役割だ。ぼくは、芸術も宗教のひとつだと思っている。それは伝えるという点に於いて。

夕方まで龍をつくって、チフミはライオンを仕上げていた。動物をつくりながら、創造主の気持ちになった。神様は、どんなことを考えて動物をつくったのだろうか。なんのために地上に生命を蔓延させたのか。

夕飯の前に図書館に本を借りにいった。禅と剣と書に通じた山岡鉄舟の本を読みたかったが、図書館には貸し出し中でなかった。

夕飯を済ませて、絵を借りた夫婦の家に絵を運んだ。お酒を吞みながら1時間ほど話しをした。旦那はヨガに夢中で、身体を動かすことの重要さについて話した。妻は、パーカッションを叩きバンドをやっているので、バンド活動について話した。あと、夫婦についても。

とくに興味深かったのは、死ぬことについてだった。ぼくは、死を自由に選べないことに疑問を持っている。生きるのと同様に死ぬ自由もあるはずだ。もはや、ひとりで生きることができなくなったとき自分は死にたい、と考えている。川端康成が高齢で自殺したのは、自らの生を終わらせたのは、そういう理由なんじゃないか、と勝手に想像している。
その話しをしたら、妻は、死ぬということも、生きることと同じように選択できないんじゃないだろうか、と言った。わたしたちは、生きているのではなく、生かされている、と。だから、死も自由にできるものではない、と。これは納得のいく説明だった。

ぼくは、現在を生きていて、いつかは死ぬ。確実に生きる時間は減っている。それを恐れはしないし、だから毎日を充実させたい。なんのためにか。それは自分の人生を生きるためにだ。もっと一日を有意義なものにしたい。

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