檻之
汰鷲
ORINOTAWASHI

フリースタイル/アドリブ/インプロビゼーション

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さて考え事でもしてみますか。

やり続ける日もあれば、止まることもある。今日は、チフミの姉の子供(3歳)の運動会をみにいった。開会式で園長先生が、「みなさん最後まで菅張りましょう!」と言った。ほかの先生も最後まで頑張れとエールを送っていた。もうすっかり大人のぼくにとって最後とは最期にほかならない。しかっり心に響いて、やる気をもらった。

午後にはボルダリング・ジムで壁を登った。最近はすっかり不調のボルダリング。思ったように出来ず、気持ちは沈むばかり。旅のために1年休み、その悪影響から抜け出せないでいる。今日は気持ちを入れ替えて取り組んだが、結局絶好調とは言えなかった。やりながら、ひとつの仮説をみつけた。不調だと感じているが、ボルダリングは、ホイホイ簡単に登れるようなスポーツではない。むしろ80%いや90%ぐらい登れない。できないをどうクリアしていくの考えて実行するのが、このスポーツだ。つまり、不調だと感じているが、もともと好調なことなんてないスポーツだ、と考えてみることにした。

ボルダリングは、自分の限界を超える装置だ。できないことをできるようにする思考が身に付く。だとすれば、何事も不調で当たり前だ。昨日できなかったことを今日やっているなら。つまり、いまとなっては、できる範囲で済ませようと胡座をかいてたんじゃないか、と自分を疑い始めている。

ボルダリングジムに行く前に本屋に寄った。新宿の紀伊国屋で、本棚を眺めて歩いた。なにか本を買いたかった。剣と禅と書の山岡鉄舟の本を買うつもりだった。ページを開いてみると、それほど欲しいと思えない。棚をみているうちに、坂口恭平の「現実脱出論」をみつけた。15年近く前に、恭平が手製の0円ハウスの原本を持ち歩いている頃に知り合った。それから、彼はたくさんの本を出版している。たくさん刺激を貰っているし、面白いに決まっている。でもぼくは、完成された楽しい本を読みたい訳でもなかった。だから結局、どの本も買わなかった。

家に帰る前、チフミと池袋で合流して、最寄りの駅で、食材とワインを買った。ワインを買うのにいつも迷う。値段と味のバランスを掴むのが難しい。今日は、チフミが選んだイタリア産の500円の赤ワインにした。家に帰ってさっそく、飲んでみた。味を判断するのに、500円で駅前のスーパーで買ったという情報が邪魔をする。じゃあ、これをプレゼントされたら一体どう判断するのか、美味しいのだろうか? これが、なかなか美味しい。
だったら、ワインは、もう考えたり調べたりしないで、チフミに買ってきてもらったものを楽しむのが一番美味しい飲み方なんじゃないか、と思えてきた。だからだ。本屋で本を探しても情報ばかりが溢れて、その中身のメッセージに出会うことができない。親しくなる友達に初めて出会うとき、約束なんかしないように、本やワインとの出会いもそうあるべきだ。

ぼくはコラージュという技法でアート作品をつくるようになってから、そのテクニックに魅了されてきた。コラージュは、予想しなかった出会いをもたらしてくれる。偶然のなかに現れる必然性だ。その輝きを発見する技術は、ほかのなによりも宝物になる。なぜなら、その魅力の第一発見者になれるからだ。仮に別のひとも発見していたとしても、その人の発見を知らなければ、同じ結果にはならない。同じものでも、まるで違うことを受け取るだろう。

だとすれば、これはジャズだ。アドリブ、インプロビゼーション。プログラムのなかに偶然性を取り入れることだ。これを言語で表現すれば、フリースタイルのラップになる。つまり、この日記もそうだ。一日にあった出来事や思考を切り取り並べている。
では10年先の計画でもしてみよう。荒唐無稽の夢物語を描けなければ、どんな夢も実現することはできない。目指す舞台は世界だ。それには日本をもっと体験しておきたい。そのために来年、名古屋の空き家を改修して住む。改修した空き家を活用できるようにする。それが日本でいまやりたい表現のひとつ社会彫刻だから。もっと日本を自由に行き来できるようにしたい。定住することより、交易する文化をつくりたい。これからの日本に必要なことだ。なぜなら、地方と都市の差別化がより進行するからだ。だからこそ、クリエイティブを発揮する人間が、その間を繋ぐ役割をしていかなければならない。場所を問わず、豊かさをつくることができれば、ひとは不幸にならない。小さな豊かさをつくる実験から初めてみたらいい。場所と空間とそこにある素材をつかったアドリブとインプロビゼーションだ。

即興演奏者は、リックという語彙をいくつも覚えている。それを組み合わせて、ときには、その場で新しい語彙をつくり出すこともある。これは賭けで、より新鮮なサウンドを手に入れるための冒険だ。そのバランスは、状況によって使い分けられる。どんな冒険を選択したとしても、表現の質を堕としてはいけない。それが技術だ。なるほど、展示の手法として、この考えを取り入れるのは甲斐のある実験やゲームだ。

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