檻之
汰鷲
ORINOTAWASHI

(2014.11.12)

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生きているのか。出版編集者と打ち合わせをした。出版社とするのは始めてだった。いつも本を出すための打ち合わせは難しい。先にマーケットがあるからだ。売れなければ出す意味がない。編集の加藤さんは、ぼくの本が不思議な立ち位置だと言う。なるほど作品集でもないし、作品を見せるためには、文章が邪魔なようだし。なにを伝えたいのか、そして誰がこの本買うのか。マーケットをイメージしようとしているのがわかった。これはビジネスだ。商売の取引をしていた。

ぼくが書いた本は、アートの本ではない。これは人生論だ。しかも無名の作家が書いた。だれでも読める本だし、誰もに当てはまる当たり前のことが書いてある。ぼくたちはたくさんの当たり前を忘れながら生きている。そういう思考や言葉が必要ない、と言われてしまえば、それまでだ。通常、本を出すには前回の実績をベースに受注が決まる。それでは初めての人が本を出す機会がなくなる。この出版社は、その出版の常識をのりこえて本を出している。加藤さんは、本に鋭角なエッジが必要だと言った。それはこれまでにないジャンルであること。だから切り返した。作品集と文章がひとつになっている本は、なかなかないです、と。また、ぼくは夫婦で活動するという普遍的な個性を持っている、と。ぼくにとっては刺激的で心地のよい打ち合わせだった。気がつかないポイントを突かれて焦ったり、また、自分の思いを伝えるために言葉を返したり。

打ち合わせは結局、本の内容次第、ということに落ち着いた。文章のチカラだ、と。確かに、どんなに策を弄したところで本質は変わらない。書き直したところで、その種は同じだ。だから、清々しい気分で本を加藤さんに託してきた。そういう気分だから、決闘を終えたみたいだ。五輪書を思い出した。いつだって真剣勝負の命の遣り取りだ。

絵を返却するために家に帰り、代官山で絵を渡して、20時の飲み会まで時間があったので代官山TSUTAYAにいって、いろんな本を眺めた。次はOneness Meetingというパーティーのデコレーションを頼まれているので、そのアイディアが膨らんだ。布を何重にも被るパンクな衣装をつくろう。身に付けるデコレーション。身体感覚を取り戻す。踊るひとのカタチのなかに現れるコラージュ。

あの本がなんなのか。あの本は「生きる芸術」を表した作品だ。それこそがアートで、それ以外にぼくには答えが見当たらない。今日、歩きながら浮かんできた。ぼくは生きるということに全力で挑んでいなかった、という思い。だから、やってみる。生きるとは目の前にある現実をつくること。それは命が何処で終わるのか、その道をつくることだ。

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