檻之
汰鷲
ORINOTAWASHI

第11回ひかり祭り 参加

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檻之汰鷲(おりのたわし)は、
神奈川県相模原市の旧牧郷小学校で、
開催される「ひかり祭り」に参加します。

ここは、中央線の高尾から数駅で、東京と神奈川の境にあります。
高尾を越えると、急に景色は山になります。会場は、
駅からバスで20分ほどで、森のなかの学校です。
その場所で、ぼくたちが表現するべきことは何か。
その想いをここに書いています。

ぼくたちは、ちょっとした道具だけ持って、
電車で会場にいき、森や街を散策して、
材料を集めます。なにがあるのか、
そのときにならないとわからないですが、
木や石はあるでしょう。もしかしたら、
壊れた家具とか、家電製品とかあるかもしれません。
ぼくたちは、モノと向き合ってみようと考えています。
モノとは物体(オブジェ)。
モノと出会い、そのモノを別の角度から眺めてみる。

そこにある状況、環境を楽しんで作品にしてみようと思います。
これは、ぼくらが旅のなかで発見した手法「サバイバル・アート」です。
限られた道具で、そこにある環境から材料とモチーフをみつけ作品にする。

これはメッセージです。
LESS IS MORE
欠くを楽しむ

JAZZ BAR

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(2014.10.27)

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展示が終わってから、絵を渡しにいって、お喋りして、お金を受け取って帰ってくるという生活が続いている。お金がなくなってくると、なんだかんだで絵が売れるという有難い状況。昨日は、LAに住んでHUFというアパレルブランドのデザイナーをしている人に会った。友達が、その彼に絵をプレゼントするということで買ってくれた。日本を高校生のときに離れ、それからアメリカでサバイバルして、生活しているそうだ。アメリカは日本より、アーティストやクリエイター、ミュージシャンなど表現者が生きやすく、また社会的にも認められているから、LAに来たらいい、と誘ってくれた。
代官山で会って、話しているうちに、渋谷にいいJAZZBARがある、ということで、いってみた。

木でつくられた壁は音を柔らかくしているようだった。流れているJAZZもよかった。ちょうど空き家の内装やデザインについて考えていたので、参考になった。

メッセージを伝えること

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今日は午前中からバンドのリハだった。ぼくがやっているバンドNOINONEは、メンバーは4人。ラップとサンプラー担当するぼく、ベースの宮下、シンセのヤスヒト、ドラムのトリッキー。もう15年近く活動している。
ぼくたちは、不器用で、誰かがつくった曲をカバーしたり、構成を覚えたりできなかった。そのおかげで、音楽のカタチから自分たちでつくることになった。結果として。だから、好きな音楽の要素を全部取り入れている。ロックにパンク、ジャズにヒップホップ、テクノやらノイズやら。簡単に言えば、パンクでラップしている。ぼくは音楽のメッセージに心を奪われている。だから、ぼくも受け取ったメッセージを伝える。
思いつくのは、
Clash、Public Enemy、John Coltrane、Mils Davis、Bob Dylan、Bob Marley、Rolling Stones、MC5、Rage Against Machine, Beastie Boys, Brian Eno、そんな先輩たちに影響を受けている。よかったら、ライブを体験してみて欲しい。
バンドは、個性溢れる人間が集まってひとつのことをやるから、とても難しい。でも、困難を乗り越えて、ひとつNOINONEというオリジナルなサウンドスタイルをつくり出せていることが奇跡だ。その音とメッセージを会場に響かせ、そこにいるひとりひとりの魂を熱くしたい。ぼくらの音楽をきっかけにその人生を掴んでもらいたい。ぼくは、こんなことをマジで考えてラップしている。それが、評価に値するかどうかは、関係なくて、ただ、溢れる想いを音に載せて伝えだけだ。

スタジオのあとは、ジムで筋トレをした。久しぶりに、やると筋力は落ちている感じがした。なるほど、これはもっとやらないてクライミングで次のステージにいけない、と感じた。やらねば。

ジムのあとは、ヤドカリの原稿を喫茶店で書いた。なるほど、最後の段落は、まだまとまっていないから、書けなかった。この感覚を想い出してきた。旅をしながら本を書くうちに、本に書くために、表現するべきことをみつけることができた。空き家をめぐる冒険は、仲間を勧誘する、空き家という問題をひとりひとりの手に委ねる、そういうきっかけを、このテキストでつくりたい。そうするべきだ。ぼくにとってテキストはコンセプトを伝える重要なアートフォームだ。

夜は、空き家プロジェクトを一緒にやる柚木さんが、主催しているNPOの芸術家の村、1周年記念パーティーに参加した。
働きながら、NPOをやるひとたちのモチベーションに感動する。仕事をして、そこではやり切らないことを利益を上げると、本来の仕事に支障があるので、NPOをたちあげ、ひとりではできないことを、仲間と社会に対してアクションを起こしている。
大学生を積極的に参加させているNPOの代表と話しをした。学生のころに自分がこんな体験ができれば、という思いから、始めたらしい。大学生はそれぞれが就職して、社会で働きながら、NPOを続けるひともいるそうだ。代表は、学生に自分の考えや社会でのポイントを伝えることを大切にしているそうだ。このひとのNPOは学校の先生に特化して、ノウハウを共有するホームページをつくっている。

芸術家の村の立ち上げ前からの映像が流れた。ぼくはこのNPOができてから知ったので、映像を通じて、これまでの苦労と歩みを知ることができた。いまは、当たり前のようにやっていることもひとつひとつ試行錯誤して、積み上げていた。

ひとりの女性が、ドミニカ共和国の貧困層の子供たちにクリスマスプレゼントを送る企画を発表した。リアル・サンタだ。その話しを聞いて、ザンビアの子供たちを思い出した。ぼくが、できることもきっとある。エジプトの子供たちは、イスラムだから、クリスマスはきっとないだろう。
アートを通じて、子供たちに何かできることはないだろうか。これからの未来をつくる世代に何かを残したり伝えたりしていきたい。

フリースタイル/アドリブ/インプロビゼーション

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さて考え事でもしてみますか。

やり続ける日もあれば、止まることもある。今日は、チフミの姉の子供(3歳)の運動会をみにいった。開会式で園長先生が、「みなさん最後まで菅張りましょう!」と言った。ほかの先生も最後まで頑張れとエールを送っていた。もうすっかり大人のぼくにとって最後とは最期にほかならない。しかっり心に響いて、やる気をもらった。

午後にはボルダリング・ジムで壁を登った。最近はすっかり不調のボルダリング。思ったように出来ず、気持ちは沈むばかり。旅のために1年休み、その悪影響から抜け出せないでいる。今日は気持ちを入れ替えて取り組んだが、結局絶好調とは言えなかった。やりながら、ひとつの仮説をみつけた。不調だと感じているが、ボルダリングは、ホイホイ簡単に登れるようなスポーツではない。むしろ80%いや90%ぐらい登れない。できないをどうクリアしていくの考えて実行するのが、このスポーツだ。つまり、不調だと感じているが、もともと好調なことなんてないスポーツだ、と考えてみることにした。

ボルダリングは、自分の限界を超える装置だ。できないことをできるようにする思考が身に付く。だとすれば、何事も不調で当たり前だ。昨日できなかったことを今日やっているなら。つまり、いまとなっては、できる範囲で済ませようと胡座をかいてたんじゃないか、と自分を疑い始めている。

ボルダリングジムに行く前に本屋に寄った。新宿の紀伊国屋で、本棚を眺めて歩いた。なにか本を買いたかった。剣と禅と書の山岡鉄舟の本を買うつもりだった。ページを開いてみると、それほど欲しいと思えない。棚をみているうちに、坂口恭平の「現実脱出論」をみつけた。15年近く前に、恭平が手製の0円ハウスの原本を持ち歩いている頃に知り合った。それから、彼はたくさんの本を出版している。たくさん刺激を貰っているし、面白いに決まっている。でもぼくは、完成された楽しい本を読みたい訳でもなかった。だから結局、どの本も買わなかった。

家に帰る前、チフミと池袋で合流して、最寄りの駅で、食材とワインを買った。ワインを買うのにいつも迷う。値段と味のバランスを掴むのが難しい。今日は、チフミが選んだイタリア産の500円の赤ワインにした。家に帰ってさっそく、飲んでみた。味を判断するのに、500円で駅前のスーパーで買ったという情報が邪魔をする。じゃあ、これをプレゼントされたら一体どう判断するのか、美味しいのだろうか? これが、なかなか美味しい。
だったら、ワインは、もう考えたり調べたりしないで、チフミに買ってきてもらったものを楽しむのが一番美味しい飲み方なんじゃないか、と思えてきた。だからだ。本屋で本を探しても情報ばかりが溢れて、その中身のメッセージに出会うことができない。親しくなる友達に初めて出会うとき、約束なんかしないように、本やワインとの出会いもそうあるべきだ。

ぼくはコラージュという技法でアート作品をつくるようになってから、そのテクニックに魅了されてきた。コラージュは、予想しなかった出会いをもたらしてくれる。偶然のなかに現れる必然性だ。その輝きを発見する技術は、ほかのなによりも宝物になる。なぜなら、その魅力の第一発見者になれるからだ。仮に別のひとも発見していたとしても、その人の発見を知らなければ、同じ結果にはならない。同じものでも、まるで違うことを受け取るだろう。

だとすれば、これはジャズだ。アドリブ、インプロビゼーション。プログラムのなかに偶然性を取り入れることだ。これを言語で表現すれば、フリースタイルのラップになる。つまり、この日記もそうだ。一日にあった出来事や思考を切り取り並べている。
では10年先の計画でもしてみよう。荒唐無稽の夢物語を描けなければ、どんな夢も実現することはできない。目指す舞台は世界だ。それには日本をもっと体験しておきたい。そのために来年、名古屋の空き家を改修して住む。改修した空き家を活用できるようにする。それが日本でいまやりたい表現のひとつ社会彫刻だから。もっと日本を自由に行き来できるようにしたい。定住することより、交易する文化をつくりたい。これからの日本に必要なことだ。なぜなら、地方と都市の差別化がより進行するからだ。だからこそ、クリエイティブを発揮する人間が、その間を繋ぐ役割をしていかなければならない。場所を問わず、豊かさをつくることができれば、ひとは不幸にならない。小さな豊かさをつくる実験から初めてみたらいい。場所と空間とそこにある素材をつかったアドリブとインプロビゼーションだ。

即興演奏者は、リックという語彙をいくつも覚えている。それを組み合わせて、ときには、その場で新しい語彙をつくり出すこともある。これは賭けで、より新鮮なサウンドを手に入れるための冒険だ。そのバランスは、状況によって使い分けられる。どんな冒険を選択したとしても、表現の質を堕としてはいけない。それが技術だ。なるほど、展示の手法として、この考えを取り入れるのは甲斐のある実験やゲームだ。

一日一日でしかない

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今日という一日をどれだけ生きることができるのか。それが毎日のテーマだ。ぼくはなぜ生きているのか、それを知りたい。

今日はパピエマシェで龍をつくった。動物をつくるうちに干支をやったらいい、という話しになった。で、面白そうな龍をやることにした。龍は、空想の動物だ。だから現実には存在しない。干支に実在しないのは龍だけだ。だから、龍はかつてはいたという説があるらしい。実在という意味では、ぼくも実在していない。ほとんどの場合で。つまり、ぼくを知っているひとの世界では存在しているが、知らないひとの世界にはいないに等しい。龍もぼくも同じ実在しない動物みたいなものだ。

龍をつくりながら、また今日もなんでこんなことをしているか疑問が湧いてきた。龍は、実在しない動物だが、その顔は駱駝で、頭には鹿の角、爪は鷹で掌は虎、身体は蛇で鯉の鱗に覆われている。なんで龍をつくるのか理由を知りたくて、調べてみた。

龍は珠を持っている。その珠は願いごとを叶えるらしい。なるほど、これがドラゴンボールな訳だ。願いごとを叶えるには、夢が必要だ。どんな夢を持っているのか。ぼくは、アートをつかって、ライフスタイルをつくりたい。アートという表現を通じて、生き方を提示したい。こんなことも可能だよ、と。そのためには、自分の人生をつかって実験しなければならない。なぜなら、それができるか分からないから。ぼくは失敗を恐れたくない。なぜなら、それは過程だから。続けている限り、ま実験をた繰り返せばいい。

なるほど、龍をつくるには、珠が必要なんだ。それをチフミに相談すると、庭に珠があると言う。うちの庭にガラスの珠があった。それはつくっている龍が抱えるのにジャストなサイズだった。

龍をつくる疑問がなくなってきた。ぼくは、誰かの人生がうまくいけばいい、と願っている。ひとは、それぞれの生き方を選択しているが、ひとりでも多く幸せになればいい。そう人類全般の幸福を祈るのが本来の宗教の役割だ。ぼくは、芸術も宗教のひとつだと思っている。それは伝えるという点に於いて。

夕方まで龍をつくって、チフミはライオンを仕上げていた。動物をつくりながら、創造主の気持ちになった。神様は、どんなことを考えて動物をつくったのだろうか。なんのために地上に生命を蔓延させたのか。

夕飯の前に図書館に本を借りにいった。禅と剣と書に通じた山岡鉄舟の本を読みたかったが、図書館には貸し出し中でなかった。

夕飯を済ませて、絵を借りた夫婦の家に絵を運んだ。お酒を吞みながら1時間ほど話しをした。旦那はヨガに夢中で、身体を動かすことの重要さについて話した。妻は、パーカッションを叩きバンドをやっているので、バンド活動について話した。あと、夫婦についても。

とくに興味深かったのは、死ぬことについてだった。ぼくは、死を自由に選べないことに疑問を持っている。生きるのと同様に死ぬ自由もあるはずだ。もはや、ひとりで生きることができなくなったとき自分は死にたい、と考えている。川端康成が高齢で自殺したのは、自らの生を終わらせたのは、そういう理由なんじゃないか、と勝手に想像している。
その話しをしたら、妻は、死ぬということも、生きることと同じように選択できないんじゃないだろうか、と言った。わたしたちは、生きているのではなく、生かされている、と。だから、死も自由にできるものではない、と。これは納得のいく説明だった。

ぼくは、現在を生きていて、いつかは死ぬ。確実に生きる時間は減っている。それを恐れはしないし、だから毎日を充実させたい。なんのためにか。それは自分の人生を生きるためにだ。もっと一日を有意義なものにしたい。

人と人は約束することもなく出会う

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今日は午前中にパピエマシェの動物シリーズで鷹をつくり、午後から空き家に関する原稿を風呂に入りながらiphoneで書いてみた。文章を喋るように、その流れで書くと、まとまるのがわかってきた。風呂でやるのは、かなり集中できるよい方法だった。

絵を買ってくれたDJのMetalくんと3時に池袋で待ち合わせ。少し前に電話があって、銀座の潰れるビルで音楽家のWhy Sheep?が講演をするから行かないか、と誘ってくれた。行くと銀座の三越そばにある名古屋商工会館が、ギャラリーになっていた。「THE MIRROR」というタイトルのグループ展で、浅葉克己、松岡正剛、名和晃平、ほか20名ほどが展示していた。
着いてすぐ、Why Sheep?こと内田学さんのレクチャーを聞いた。ジョン・ケージからBrian Eno、KLFから現代のサウンドアートに関する講義だった。学さんは、歴史的な背景を説明して、枯山水サラウンドディングとしての活動の報告した。講演で、もっと具体的な活動の苦労や、どのように実現してきたか、ということを聞きたかった。アーティストは、その歴史を並べることはできるが、結局、その人なり活動がどのようにカタチになっているのか、現時点での自分の状態に分析・批判する言葉を持っていないように思う。聞き手が、もし内田さんのような活動をする際に、どうしたらできるのか、どうしたらサバイバルできるのか、そういう話が聞きたかった。

その後、展示されている作品を見て回った。空きビルの活用方法としては、なるほどだが、作品展示のインパクトとしては小さかった。作品のひとつひとつはよかったが、ビルの雰囲気が作品の質を下げていた感があった。商工会館がとても古いビルなので、作品も一緒に古びて見えた。目に付くのは写真の作品だった。写真をフレームに入れて飾る、そのつくり方に興味を持った。作品をどう仕上げて、展示するか、それこそが重要な見せ方だ。最上階には、松岡正剛による本のセレクトショップがあって、剣豪のコーナーにあった剣と禅と書に通じた「山岡鉄舟」の本が、欲しくなった。自分を剣豪のように、もっと動かせるようになりたいらしい。

その後、学さんの講演に来ていたメンバーで呑みにいった。知らない人たちが集まって飲み屋にいった。そこにサウンドファニチャーの藤枝さんもいた。藤枝さんは、学さんの影響でサウンドスタイルが変わったそうだ。ほかの人たちと少し話をすると、共通の知り合いがいたりで、すぐに打ち解けた。この瞬間が素晴らしい。なにせ知らない人と話すのは、未知の領域に足を踏み入れることだ。

Metalくんはライターとして音楽のエンジニアとしてキャリアを積んできていた。彼は、トランペット奏者として世界的に有名な近藤敏則のスタジオに出入りしている。先週、MetalくんのDJを聴いたが、とてもよかった。彼は自分のDJスタイルについて、芸術か娯楽かで論争した時期があると教えてくれた。現在は、芸術としてやっているそうだ。これから音楽作品を発表していくと話していた。彼の音楽が好きだ。なにか一緒にやりたい、と空想した。

元政治家の秘書をやっていた人がいた。現在はデザイナーとして活躍している様子だった。空間を変えたくて政治の世界に入ったらしい。でも、やってみたら、政治からではなく、自分から働きかけた方が、空間を変えられると気が付き、方向を変えたそうだ。近く、東京の川を遊覧しながらの音楽会を主催するそうだ。コンセプトが面白かった。生楽器を演奏して、船で遊覧して音を聴くが、実際は、その音楽は聞こえなくて、街のノイズにかき消されてしまう、橋のしたを通るときだけ、音楽が聞こえるそうだ。サウンドスケープとしての実験だ。この人は、都市の音を聴くイベントをやりたいそうだ。

絵を渡しにいくだけの予定が、すっかり軌道を外れて、何人かの人と話す機会を得た。途中で帰ることもできたけど、この社会をつくるのは、人間だから、ひとりひとりの人間と出会い、その活動に耳を傾けることが、フィールドワークになる。昨日出会ったひとは、それぞれが社会のなかで、自分の表現をしていた。そのやり方にヒントがたくさんあった。こうして出会いを引き寄せてくれる音楽が自分のルーツなんだと改めて実感した。人と人は約束することもなく出会う。それが人間関係の始まりだ。

毎日の仔細な出来事を引用し編集するヒップホップ

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今日は起きてすぐ、ストレッチをして、パンとコーヒーでいつもの朝を迎えることができた。こんなことをわざわざ、書いてと笑う人もいるだろう。でも、いつもの朝を迎えられた事実こそが、素晴らしい一日の始まりだ。
英訳したプロフィールをNYのギャラリーに送ったら、グループ展の誘いが返ってきた。ぼくらはこのギャラリーのお客さんだ。NYにいきたい、この街で活動したいアーティストを対象にビジネスしている。需要と供給が一致した訳で、だからぼくらは、このギャラリーを利用している。

午前中いっぱいは、昨日に引き続きパピエマシェづくり。昨日は猿が自分的に大ヒットだったので今日は、人間をつくることにした。人間も動物。人間は、弱いから文明を発展させたと話しを聞いたことがある。それは確かだ。ぼくも弱くて困っている。思い通りに自分を動かせれば、どんなに人生を過ごしやすいか。チフミと人間の人形をつくりながら、毎日8時間を制作につかうことができるか話し合った。ぼくは労働が嫌いだ。ひとに言われたように動くのが嫌だ。そんなことを言っているから、いまのように自分で仕事をつくらなきゃいけないハメになっている結論、毎日8時間の仕事をすることは、なかなか難しい。ぼくは、そんな抵レベルの人間だ。

猿が上手くいったので、人間をつくってみた。ポーズをどうしようか考えて、ブレイクダンスの動きにした。裸の男と女が踊るブレイクダンス。ポーズをつくるうちに、その身体のカタチがグラフィティと一致することがわかった。ヒップホップがここにみえた。ヒップホップは、そこにあるものを駆使した究極のアートフォームだ。楽器がないから、レコードプレイヤーで音楽を鳴らしてパーティーを始めた。場所がないから団地の公民館をつかって。盛り上げるために誰かがマイクで煽った。それがMCだ。踊りに熱中するひとが現れ、その熱を冷まさないためにレコードのブレイクの部分を繰り返すために、ミキサーが使われるようになった。そんなことを考えながら、2体の人形をつくった。

夕方に、作品を渡すために渋谷にいった。DJ Sarasaに会った。彼女は、先日の展示会でDJをしてくれた。ギャラの代わりにスキルトレードをしようと申し出てくれた。素晴らしいアイディアだ。その作品を渡しにいった。ちょうど、ブレイクダンスの人形をつくっていたので、自分のなかでは、今日という日がヒップホップだった。Sarasaは、ここ2年くらい注目して応援してくれている。感謝だ。彼女は、それこそ、ヒップホップというフィールドでは、第一線で活躍している。彼女は自分でマネージメントして活動している。つまり、生きる芸術をつくり出している。
DJは、誰かのつくった音楽を流すという表現だ。だから、誰でもできることでもある。でも、彼女のように生活を支えるほどになるのは難しい。DJの良し悪しは瞬間で決まる。そのひとの音を出した時に、伝わる何かによって。ぼくは2曲で伝わるものがなかったら、そのDJに対する興味がなくなる。彼女は1曲だといった。DJのパフォーマンスは、結局、音は空気だから、その空間をつくることに繋がる。間の取り方、仕草、リズム。Sarasaは一緒に何かやろうと言ってくれた。

2時間ほどお喋りして、駒沢大学にあるボルダリングのジムに移動した。ジムに展示のために借りていた作品を返却した。オーナーは、檻之汰鷲の作品を気に入ってくれた。また買いたいと言ってくれている。新しい作品ができたら見せる約束をしている。こうしたひとつひとつのやり取りもまた、DJのようにパフォーマンスだと感じる。ジムでは、新しい靴をオーナーが用意してくれていた。ボロボロになっていたので、買い替えることになった。試し履きをしてお買い上げすることになった。2万円。いま最もお金をつかっているのがボルダリングだ。ジムに毎月1万3千円。外岩にいく交通費や食事代。なんだかんだで4万円。毎月使うお金としては、ほかには人に会うための交通費。作品を売ってもどんどんお金は消費されていく。明日も作品をひとつ売りにいく。綱渡りだ。

こうして生活してみて、昔の小説家や画家がギリギリで生きていた感覚を実感する。誰もが不確かないまを生きて、自分の芸術をつくっていた、書くこと、描くこと。それが何のためなのか、答えてみたい気がする。自分の場合は、労働が嫌いで、快楽に浸っていたい、という恥ずかしい理由が、浮かんでくるのがいまのところ。

クライミングジムから、用賀に移動して、次の作品を返却しにいった。古くからの友人で、空き家プロジェクトに興味を持っているので、その話しで盛り上がった。プロジェクトの要は、彼のような人間が参加できる環境をつくることだ。プロジェクトのゴールを段階的に設定してクリアしていくこと。また、魅力ある人間が関わっていくことで場所は、呼吸をするように、再生していくはずだ。手を上げる人間に機会を与える。

Sarasaと、最近は、行動にするひとが少ないと話した。ネットの情報を拾って「いいね」となるが、実際に足を運んだり買ったりすることが少ないと。これはマーケティングの話しだ。たった2曲でオーディエンスの心を掴むDJのような、パンチ力が必要だ。例えば新しい作品を誰かに見せたとき、その魅力に抵抗できない魔法のような、その力は、マーケティングという意味では、自分が考えるより、もっと強烈なチカラで放たなければ伝わらないのかもしれない。それは事件だ。事件を伝えるのが報道。芸術が起こした事故を報道して事件にすること。それが今日みつけた技術だ。それは、毎日の仔細な出来事を引用し編集するヒップホップでもある。

2時間ほどお喋りして、駒沢大学にあるボルダリングのジムに移動した。ジムに展示のために借りていた作品を返却した。オーナーは、檻之汰鷲の作品を気に入ってくれた。また買いたいと言ってくれている。新しい作品ができたら見せる約束をしている。こうしたひとつひとつのやり取りもまた、DJのようにパフォーマンスだと感じる。ジムでは、新しい靴をオーナーが用意してくれていた。ボロボロになっていたので、買い替えることになった。試し履きをしてお買い上げすることになった。2万円。いま最もお金をつかっているのがボルダリングだ。ジムに毎月1万3千円。外岩にいく交通費や食事代。なんだかんだで4万円。毎月使うお金としては、ほかにはひとに会うための交通費。作品を売ってもどんどんお金は消費されていく。明日も作品をひとつ売りにいく。綱渡りだ。

こうして生活してみて、昔の小説家や画家がギリギリで生きていた感覚を実感する。誰もが不確かないまを生きて、自分の芸術をつくっていた、書くこと、描くこと。それが何のためなのか、答えてみたい気がする。自分の場合は、労働が嫌いで、快楽に浸っていたい、という恥ずかしい理由が、浮かんでくるのがいまのところ。
クライミングジムから、用賀に移動して、次の作品を返却しにいった。古くからの友人で、空き家プロジェクトに興味を持っているので、その話しで盛り上がった。プロジェクトの要は、彼のような人間が参加できる環境をつくることだ。プロジェクトのゴールを段階的に設定してクリアしていくこと。また、魅力ある人間が関わっていくことで場所は、呼吸をするように、再生していくはずだ。手を上げる人間に機会を与える。

Sarasaと、最近は、行動にするひとが少ないと話した。ネットの情報を拾って「いいね」となるが、実際に足を運んだり買ったりすることが少ないと。これはマーケティングの話しだ。
たった2曲でオーディエンスの心を掴むDJのような、パンチ力が必要だ。例えば新しい作品を誰かに見せたとき、その魅力に抵抗できない魔法のような、その力は、マーケティングという意味では、自分が考えるより、もっと強烈なチカラで放たなければ伝わらないのかもしれない。それは事件だ。事件を伝えるのが報道。芸術が起こした事故を報道して事件にすること。それが今日みつけた技術だ。それは、毎日の仔細な出来事を引用し編集するヒップホップでもある。

ONE OF THESE DAYS

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(Thoughtography)

クライミング

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